Step Forwardのたまき先生ってどんな人?

投稿日時:2023/08/15 10:38


先日、ダンス仲間に言われてしまいました。「webサイトにたまきちゃんの経歴を載せた方がいいと思うよ」と。

私自身の経歴について、ふと考えさせられました。

初めての方には、私のことを知って頂くために、Step Forwardの発表会をご覧になっていただければ充分でだろうと思っていました。しかし、より詳しく知りたいと思われる方もいらっしゃることでしょう。

発表会を通じて「こういう舞台を創る人なんだ」というイメージが伝わることはあるかもしれませんが、「こども英語ミュージカルというジャンルをどのようにして始めたのか」という経緯にも興味を持たれる方がいるかもしれません。そうした背景が分からないと、信用や信頼性を判断しにくいと感じる方もいるかもしれませんね。

そこで、卒業した大学や以前の職歴などをリストアップするのも一つの方法ではありますが、私らしさを感じて頂くために、ストーリー形式で自己紹介してみたいと思います。

幼少の頃、父親の仕事の転勤でニューヨークに引っ越すことになりました。
ちなみに、私の父親はエルビス・プレスリーの大ファンで、ニューヨークに到着したその日、車のラジオからエルビスの曲がヘビロテで流れてきたことに大いに興奮したそうです。ただ、残念ながらエルビスはその数日前に亡くなっており、後からその事実に気がついたときはガッカリしたそうです。プレスリーの命日をお調べになると、私の年齢もおおよそわかるかもしれません。)

ニューヨークで楽しい4年間を過ごした後、小学1年生の夏に日本に戻りました。
ここで「読み書きをしっかりやるべき」と考える私のエピソードを挟ませてください。私の考え方を少しでもお伝えできればと思っています。

当時、言葉は話せていましたが、英文はなんとなく読める程度でした。
日本に戻ってみると、「たまきちゃんの日本語、ちょっと変だよ」とよく言われ、学校の先生からも「英語を話すのをやめて、日本語だけを話すように」とアドバイスされました。その指導の影響もあってか、わずか1年足らずで英語を話すことができなくなり、日本語だけを使うようになりました。現在の視点から振り返ると、「なんてもったいないことをしたんだろう!」と感じることもありますが、そのころは完璧な日本語を話せることが嬉しく満足していました。

ここで、「1年足らずで英語がどうしてこうも急速に頭から消えてしまったのか。」という疑問が残ります。成人後に得た情報によれば、帰国子女が読み書きができてから帰国すると「日本語オンリーの環境で暮らしても英語のスキルが保持できる」のだそうです。確かに、小学4年生以降で帰国した人の多くは、私のように英語のスキルを失う問題には直面していないようです。
ここで私は、英語力を維持するためには「小学校低学年から読み書きの勉強を始める必要がある」と考えました。

さて、話を私の人生に戻しましょう。日本で小学生時代を過ごす中で、心の中で本当は空手や器械体操を習いたいという気持ちがありました。しかし親の助言でピアノを習い、学校では科学クラブや器楽部などに所属し、インドア派の一面を見せていました。

小学6年生の秋(ちょうどハロウィンの時期)、再び父の転勤で米国ジョージア州に引っ越すことになりました。英語が完全い抜け落ちた状態での渡米で、幼少期とは異なり英語を学び直さなけれなならないという難題に直面しました。しかも、現地の小学6年生達はすでに化粧やお洒落に敏感で(補足:マドンナが大人気の時代です)、会話も大人びていました。髪を三つ編みにしている私にはなかなかの刺激でした。まるで子供のような私が、大人びた女の子達と対等に会話するのも大変でした。加えて、宿題を何とかこなせるようになるまで半年かかりました。まだ小学6年生なのに宿題を終えるために徹夜することを覚えたのもこの頃です。

幸運にも、その頃に私の救世主が現れました。それは人間ではありません。Sentence Diagrammingという英文法の勉強法です。ちょうど、7年生に進級したばかりの頃、グラマーの授業で学びました。この方法は、英文を品詞ごとに分解して図式化するもので、英文法を直感的に理解するのに役立ちます。当時の私は、英語を深く理解できていなかったため、英語で説明されても理解できなかったのですが、Sentence Diagrammingを用いることで、まるで数学の問題を解くように答えを導き出すことができました。(この勉強法は、私の個人レッスンを受けている生徒に動名詞や不定詞を直感的に理解してもらうのに使うことがあります。)

Sentence Diagrammingのおかげで英文をだいぶ楽に読めるようになり、宿題も確実にこなせるようになりました。これにより両親もホッと安心させてあげられる成績を取れるようになっていきました。(慣れない環境で生活しているなか、休まず学校に通っているだけでも十分だったと思っていた私ですが、両親の期待に応えられるよう、毎晩頑張って勉強に励みました。)

こうして小学校を卒業した私ですが、新たな挑戦が待っていました!
私が住んでいたディケーター地区では、小学校(7年生まで)を卒業したら後は高校(8年生から)に進学するシステムでした。地元の女子生徒たちは、「高校生になる!」と意気込み、一層大人びて行きました。私の親友とは別の高校に行くことが決まり、私はパニックに陥りました。しかも、周囲からは「友達ができない人もいるし、いじめられることもある」と脅されました。

おそらく母も同様の心配を抱いたのでしょう。夏休みが始まると、突然「夏休み中に、高校のチアリーディングのキャンプに通って、学校が始まる前に友達を作りなさい!」と、私の意見を聞かずにチアリーディングのキャンプに申し込まれてしまいました。

「あんな短いスカートを履いて脚を上げたりするなんて!どうしてこんなことを。。。」と内心思いましたが、「チアリーダーは学校でのステータスが高く、選ばれれば高校生活が楽しくなるかもしれないし、少なくともチアリーダーの友達がいれば、いじめられる可能性が低くなる!」と考え直し、チアリーディングのキャンプに通うことにしました。

最初は躊躇していたものの、チアリーディングは正しく私の救世主となりました。踊ること、大きな声で応援すること、とにかくニコニコ笑顔でい続けること、ぴょんぴょん跳ね続けていること、アクロバティックな技を披露すること、アメリカンフットボールやバスケットボールの試合の雰囲気。すべてが初めてで、その楽しさに驚かされました。キャンプ後も家で技を磨く努力を続けた結果、トライアウトでチアリーダーに選ばれた瞬間の喜びは今でも鮮明に覚えています。私の人生にダンスという新たな要素が加わったのがこの頃でした。

チアリーダーとしての活動を通じて高校生活を楽しむことができました。しかし、アメリカでの充実した日々を送っているなか、「次は高校受験よ!日本に帰国します!(by 母)」と突然の決定が下されました。中学3年生の冬でした。

帰国子女を帰国子女として受け入れてくれる学校が限られていた上、たった3ヶ月で受験に備えることになりました。「こういう事はもっと早く言って欲しかった」と思いつつ、とにかく母親の方針に従い塾に通い、塾から与えられた問題集をブルドーザーのようにこなしていきました。

振り返ってみますと、この時お世話になった塾の先生方は「本当にプロだったな」と思います。現実が見えておらず呑気だった私に喝を入れ、合格できるまで厳しく指導してくださったことに感謝しています。

こうして私は日本の高校受験に挑み、帰国子女が萎縮せずに学校生活を送ることのできる国際基督教大学高等学校に入学することにしました。しかしながら、入学してみると、「みんな優秀すぎる。。。」という現実が待っていました。1年生の時、「自分は頭が悪いに違いない」と感じ、不安と自己評価の低さに悩むことがしばしばありました。

こうして優秀な生徒が多い学校での日々に揉まれながらも、チアリーディング部の立ち上げや友人とのバンドを結成など、忙しくも充実した高校生活を送りました。それは苦痛と快楽の真鱈模様でした。

高校での成績をしっかり維持し、苦手教科も手を抜かず注意深く取り組んだおかげで、大学進学は推薦で国際基督教大学に進むことができました。

大学では、教養学部国際関係学科の国際金融を専攻をしました。ここでもかなり濃密な時間を過ごしましたが、詳細については興味を引くものではないと思いますので、先に進みましょう。

自分の性格については理解しているつもりでした。ところが驚くことに、最初の就職先は大手企業のN證券でした。今振り返ると、その進路は私には全く合わないものであり、まさにありえない選択であったと思います。金融の世界をカッコいいと思っていましたが、金融の世界を甘くみていたのです。自分の中で、「本当に金融が好きな人なんているのか?」と疑問を抱えながら、単に大企業に就職して親を安心させることを考えていました。

これをぶった斬る衝撃を受けたのが、入社後の研修期間中でした。品川の某ホテルに一ヶ月間ほぼ監禁状態で研修を受け、最後に試験を受けるというコースでした。私には苦痛以外の何ものでもなかったので、「あ〜、こんなの楽しくない」と独り呟いている時に、興奮気味に株や債権の話をしている男性二人組の会話を聞いてしまったのです。ジャニーズファンが、鼻を膨らませながら推しの話をしているように、キャッキャキャッキャと楽しそうなのです。「この人達、金融の世界が本気で大好きなんだ!」と知ってしまったのです。

金融業界の実際の姿や仕事の実態に直面し、私の考えが大きく誤っていたことを理解しました。金融業界も、他の仕事と同様に、自身の情熱や興味がなければ楽しく続けることができない、と痛感しました。そのころの私はストレスで心も体もボロボロになっていきました。

この経験を通じて、自分の選択肢を再評価する必要性を感じました。私はその後、新たな道を模索し始めました。次第に自分自身の関心や情熱を大切にすることの重要性を理解し、より適した方向性を見つける努力を始めたのです。

その後、芸能事務所でダンスの講師として活動していた妹と一緒にユニットを結成し、バイトをしながら曲作りを始めました。手元にあるお金はすべて作曲に必要な機材に投入し、自身の時間はすべて作曲やレコーディングに捧げ、同時にダンスのレッスンにも欠かさず通いました。何かしらの追い風が私たちを後押ししていたのか、私たちのデモテープは人の手から手へと渡り、ついに芸能事務所と(後にレコード会社とも)アーティスト契約を結ぶことができました。証券会社を退職してから一年後のことでした。

ユニット名twinkeeでのデビューを果たし、その後、事務所と方針との相違から契約更新を行わず、新たなアーティスト名 S-Senceに改名したのち、別の事務所と契約し、アルバムのリリースを続けました。(ノースウェーブでラジオ番組を持たせてもらったこともあります。月に2回の頻度で東京から札幌に通うこともありました。不思議な巡り合わせで、その札幌に今こうして暮らしていることが感慨深く思えます。)

歌手としての活動中に、妹とともに気がついたことがありました。「ステージに立って歌うのは楽しいけれど、私たちって裏で曲を作っている時の方がイキイキしてるよね」ということです。時には、自分自身の中に秘めた情熱を発見するために、様々なことに挑戦することが大切なのだと悟りました。初めは、ステージに立つことが自分の真の情熱であると信じていましたが、その実、裏方で熱中して創作活動に取り組むことの方が私たちにとって魅力的で充実感をもたらすことに気づいたのです。

歌手活動中、私と妹は人生の転換点をもたらす人物に会いました。その方は、レコード会社の紹介など、多くの援助をしてくださいました。その次は、「都内の幼稚園で目玉になるクラブを作りたいと張り切っている幼稚園経営者がいるから紹介する」というのです。その目玉となるクラブが「英語ミュージカル」だったのです。

当時の私たちは、英語は話せるし、踊れるし、曲も作れるけれど、ミュージカルの経験はありませんでした。最初は「忙しいから。。。」とやんわり断っていましたが、その人物から「他に頼める人が全然見つからないんだよ!どうか手を貸してくれ!」と懇願され、躊躇いながらも引き受けることにしました。正直なところ、英語ミュージカルを子供たちに教える自信がまるでありませんでした。

当時の私の心情を振り返ると、私はまさに「オズの魔法使い」のようでした。心の中で自分を、「エセ英語ミュージカルの先生」「なんちゃって英語ミュージカルの先生」と自嘲的に呼んでいました。しかしこの経験から学んだことは、最初は自信がなくても、人々の期待に応えようとしているうちに「本物の講師」に徐々に変わっていくことでした。魔法使いももともとはただのマジシャンです。しかし、人々の望みを叶えるために努力する過程で、人々に認められ「魔法使い」としての存在感を得たのです。トトが幕の裏にいる「男」の正体を暴いた後も、カカシとブリキ、ライオンの望みを叶え、彼らの心に幸せをもたらしました。彼は外見こそはただの男であるにもかかわらず、人々の求めるものに応える優れた「魔法使い」へと変わっていったのです。(因みに、ドロシーの願いだけは叶えることができませんでしたが。。。)

ここで余談ですが、私はこの「魔法使い」が大好きなのです。彼の気持ちが痛いほどよく分かるのです。

その後、私は35歳で札幌に嫁ぎ、札幌にも英語ミュージカルの団体を立ち上げ、2023年8月6日に11回目の発表会を行いました。常に新たなアイディアを工夫を凝らし、子供達が楽しく英語を学べるよう努めています。未来に向けてもっと素晴らしい作品を作り上げるために、日々創意工夫に取り組んでいます。